日本と私

Leonardo Chiariglione

 

イタリアは常に日本に魅了されてきました。両国の間には実に多くの共通点があります。2000年有余の長い歴史の中で培われた国民性、国土の形(長く伸びた半島と島の対比)日常生活における火山や地震からの甚大な影響、言語における発音の類似点などです。

 

日本もまたイタリアに魅せられて来たと思います。パンやカルタで知られるポルトガルや、鎖国時代に西洋社会への門戸の役割をしたオランダのような、長期にわたってより密接な関係を持っていた国々は、実際にはそれほどの影響を持たなかったと私は考えています。

 

私の日本との始めての出会いは、大学2年のときでした。政治的な野心が非常に強い時期にイタリアで設立された学院である、中東極東学院(ISMEO)が、日本語の免状を得るための夜間コースを開設していました、そこでは日本の言語や文化、文学、歴史、そして宗教も学ぶことができました。

 

私の高校は古典高校、つまり文系高校でしたので、文化的な事柄への私の関心は非常に高かったのです。特に極東アジアの文化には強く引きつけられていました。それで大学2年からそのコースに参加し、大学4年生になると日本語である成果を挙げる事が出来ました。

 

しかし私の専攻は工学部でした。そのため、自分の文学への傾倒と工学の勉強を何とか両立させようとしました。4年目から(イタリアでは5年で修士レベルになるのですが)日本での技術研修の機会を探し始めました。電気磁気と回路が専門である私の教授は、KDD研究所の古賀一策教授の知人であり、私はそこでインターンシップを得ることができました。

 

ロシア経由で鉄道や飛行機、船を使ってまるまる一週間かけて、横浜に到着しました。なぜかと申しますと、当時はそのルートが最も安かったからです。途中、ハバロスクでナホトカ行きの列車を待っていた時に、非常に嬉しい事がありました。日本人グループと出会い、本当に日本語で会話ができた事を確認しました。

 

東京での4ヶ月の間に、会話能力を深め、日本の生活を知り、なんと違った世界があるのかと実感しました。またKDD研究所の井上誠一、芝田好章、山本英雄そして私主任者であった榑松明の人達と知り合い、後に私の学位論文テーマとなる光学式文字認識OCRを初めて経験したのです。

 

KDDでの技術研修は私の人生の転換点となりました。日本において第一級の技術経験と文化的な経験を同時に終えることができたと実感しました。その後文部省の奨学金に応募し、それを取得して空路来日しました。このときは2日間しか要しませんでした。南回りの経路で来ましたが、飛行機がカイロで機体トラブルを起こしてしまいした。

 

日本では東大本郷の3号館宮川研に配属されました。新しくできたばかりの研究室で、滝研の隣りにありました。東大ではその後長くお付き合いすることになった、たくさんの人達や自分と同年輩の学生達と出会いました。NTTに行った青山友紀と安田浩、名古屋大学に行った谷本正幸のような人々です。特に青山さんは修士2年の学生で、宮川研で一緒に机を並べていました。安田さんに関して一番強く印象に残っているのは、忘年会での彼の卓越した(しかし私には高度すぎる)伝統的な短歌の詠みです。その中で特に印象深いのが、人と人の繋がりや人と場所との繋がりを描いている次の句です。

人はいさ 心も 知らず 故里は 花ぞ昔の  香に匂ひける

谷本さんは学年も研究分野(半導体デバイス)も違いましたが、当時から知っていました。

 

東京・駒場の留学生会館での暮らしは、28ヶ月続きました。その間に、私は東京を「わが町」、日本を「わが国」と思うようになりました。毎日のように本郷の研究室で研究に励み、日本人学生や他の留学生達と全く同じように毎日を送りました。

 

ほぼ毎日机に向かっていたと申しましたが、事実は少し違います。1969年1月のある日、安田講堂を含む数箇所の校舎を占拠していた全学連を排除するために、東大の周りを包囲していた機動隊により全ての校門が閉められたのです。自室に戻りテレビを見ましたら、多量の催涙ガスを浴びながら、安田講堂の塔の頂上で数人の学生が赤旗を振っているのが映っていました。

 

東京暮らしは或る一点を除いては、快適でした。文部省奨学金の月額¥33、000は私の生活を維持するのには不足していました。東南アジアからの留学生にはこの奨学金で貯蓄までできていた人も何人かいましたが、私にはできませんでした。1970年の終わりには、奨学金を使い果たしたので、休学を願い出てイタリアに帰国しました。

 

イタリアに戻り、現在のTelecom Italia の研究センターであCSELTに職を得ました。センター長は、私が画像符号化を研究していた滝研に関わりを持っていたことを聞き、私をテレビ電話の調査担当にしました。AT&Tは丁度その頃画像電話サービスを始めており、テレビ電話は全ての電気通信業界で大きな話題となっていました。

 

このことは私の職業人生における2番目の転換点でした。

 

イタリアでの2年間は大変重要でした。なぜなら、十分な給与を得て、結婚と2度目の奨学金を得る準備を十分に整えることができたからです。

 

その頃、来訪された東大の羽鳥光俊さんをアルプスでのスキーにお連れし、宮川先生とはモンブランにご一緒しました。

 

私は文部省の奨学金に応募し、それを得て結婚を決意し、結婚の日に新妻のアンナと共に日本に旅立ちました。

 

10ヶ月の間、私は信じられないくらい学位論文の完成に没頭しました。そして、1973年8月末に学位審査に合格しました。

 

下宿と新設された東大コンピューターセンターへの間を、数千枚のパンチカードを毎日運ぶために買ったホンダ750で最後の日本旅行を終え、私は9月初めにそのオートバイを貨物機でカラチに送りました。

 

数日後アンナと共に別便でカラチに到着し、そこから私達は7000kmを15日間で走破し、パキスタン、アフガニスタン、イラン、トルコ、ブルガリア、ユーゴスラビアを経て、ついにイタリアに帰国しました。

 

私は、冒険心にあふれる生活に終わりを告げると同時に、これから新しい職業人生を始めようとかたく誓いました。

 

私のイタリア帰国が合図のように、たくさんの方が日本から来訪しました。青山さん、安田さん、早稲田大学の富永先生、東大の安田靖彦やその他大勢の方々で、拙宅は何年もの間日本語で賑わって[nigiwatte]いました。

 

ここで宮川先生の早すぎるご逝去について述べなければなりません。私は先生と先生の人間性に大きな恩恵を受けました。先生のご逝去により、私と他の学生たちは突然浪人の身となってしまいました。

 

2 Mbit/sのビデオ会議に関するヨーロッパのCOST 211 プロジェクトは、私が始めて参加した全ヨーロッパプロジェクトです。その結果はITU-T勧告H.120 シリーズとなりました。このプロジェクトは工業目的でしたが、実際には符号化技術に関しては後退ともいえるものでした。といいますのは、CSELTの私のグループ以外には、もっと有望な映像符号化手法である直交変換に関わっているところが殆んどなかったからです。

 

COST211の後継版であるCOST211bis は、NTTの大久保栄氏に率いられたITU-T の“p x 64 kbit/sでの音声映像サービスのための映像符号化” プロジェクトと関連していました。このプロジェクトはDCT符号化をベースとしていたので、私は、ADPCMは映像符号化に不適切であるとの見解が最終的に確認されるのを見ることができました。

 

CSELTの親会社は、CATVを実際には展開することができませんでしたが、それでもCATVに関心を持ち続けていました。しかし、CSELTにおける私の任務は映像符号化の全てを包含していたので、私は異なる企業のニーズに応えることができる、共通の符号化アーキテクチャに興味を持つようになりました。私は音声映像符号化機器に必要な集積回路の開発コストを分担し合いたいと考えました。そこで私は、欧州委員会のResearch & development on Advanced Communication for Europe (RACE)と呼ばれる研究開発プログラムが提供してくれた機会に飛び乗りました。

 

私が立ち上げ先導した集積映像符号化器プロジェクトIVICOは、広範囲のアプリケーションや産業で利用するために、動き推定と補償、DCT、メモリー制御のような最少の共通集積回路の定義を打ち立てることを目標としていました。当時、映像符号化のためのICは皆無であったことを思い起こして下さい。

 

この1年プロジェクトは、基金上は5年間続くものでしたが、様々な理由で中断してしまいました。その要因は、内的には、会社がブロードバンドサービスに投資する必要性はないのではないかと考えたこと、そして外的には、集積回路が数年間でデジタルテレビ向けに商業的に可能になるという見通しに対する反対でした。後者に関しては、その当時の欧州委員会の公式な政策は、HDTVはアナログ方式で最初に展開されるというものでした。テレビのデジタル技術が大きな役割を果たすことになるのは、2000年代の最初の10年頃と予想されていました。

 

日本とヨーロッパは、HDTVのために互いにMUSE方式とHDMAC方式を主張して、競争していると考えていましたが、事実は同じ方向に向かっていたのでした。このときには、まだ両者共に、この両大陸間の政策の絡み合いを無意味にしてしまう企てが準備されていることを知りませんでした。

 

1986年にITUがHDTV勧告を採用するのに失敗したことに、私は驚きませんでした。それまでに私は自分自身の考えを展開し始めていました。それは、今はどこかへ行ってしまった多くの優秀な人々から得た教訓によって形づくられたものです。彼らは技術と政治のバランスを何とか取ろうとしていました。

 

私の考えは次のようなものでした:政治的課題を認識している必要はあるが、技術的な解決に専念すべきである。もし後者が成功すれば、政治はどれほど紐が首に絡まっていても、最終的には頭を下げて技術の結果に従わざるを得ないのです。

 

第1回HDTVワークショップは、ITU総会の数週間後の1986年11月に開かれ、HDTV分野の主要な技術者、研究者が参加しました。TAT方式を開発した谷本さんにも電話をかけて招待し、もちろん参加してくれました。数箇月後に運営委員会が設立されました。それは即ち、運営委員会活動ガイドラインの下に、同じ土俵に立つ日米欧の3つの地域と各技術分野を代表する人々からなる委員会でした。青山さんと安田さんがHDTVワークショップの設立に協力し、MUSE方式を開発したNHKの二宮祐一さんもまた運営委員会委員となりました。

 

HDTVワークショップは14年間継続しました。これは私にとって、異なる会社を代表する様々な人々の事業目標を棚上げして、事業目標のための共通の技術目標を達成するために、異なる国と技術分野から人々を一堂に呼び寄せようと試みた、最初の体験でした。

 

これが、私がHDTVワークショップで学んだことです。私はそれに磨きをかけ、他の様々な状況に適用しました。今では、これらの全てがどのように効果を発揮するかを熟知していると思っています。

 

このことは私の職業人生における3番目の転換点でした。

 

IVICOプロジェクトが失敗したことにより、私は否応なしに従来の戦略の再考に迫られました。多数のヨーロッパ企業が使えるような音声映像符号化のためのマイクロエレクトロニクス技術を開発することが不可能だったので、地域的な影響や圧力を防ぐために、世界規模で活動しなければなりませんでした。それは私の本来の志からは、かなり縮小されたものでした。マイクロエレクトロニクス技術の国際的な開発は考えられなかったのですから。しかしながら、国際的な技術仕様という目標はなお価値があるものでした。

 

志を実行するチャンスが神の摂理により与えられました。Globecom1986でIVICOに関する論文を発表するために行ったテキサス州ヒューストンで、安田さん、青山さん、そしてKDDの山崎泰弘さんと再会しました。中華料理店で日本代表団との食事中に、安田さんは私を最近設立されたJoint ISO-CCITT Photographic Coding Experts Group (JPEG)に誘いました。

 

私が初めてJPEGに出席したのは、1987年3月のダルムシュタット会合でした。そこで私は、テレコム、放送、コンピュータ端末装置、集積回路等のような、広範囲の産業の代表者たちから成る異種の気質を持った集団を目にしました。それはまさに私がヨーロッパのレベルでIVICOに取り入れようと試みていた組織でした。そしてそれはまた、HDTVワークショップ運営委員会で実行したものでした。

 

1988年1月に私は安田さんを説得し、Moving Picture Coding Experts Group (MPEG)というJPEGに並ぶ組織を設立しました。同じ会議で、2値画像の符号化のためのJoint ISO-CCITT Binary Image Coding Experts Group (JBIG)と呼ばれる別の組織も設立され、山崎さんがその議長に任命されました。

 

3名の東大卒業生がISO委員会で同時に3つの主要な役割を占めていたという事実へのコメントは、皆さんに委ねます。それは東大マフィアの仕業なのでしょうか、あるいは、時に良く時に悪いことをする運命が、人生を弄んだ一例に過ぎないのでしょうか。

 

このことは私の職業人生における4番目の転換点でした。

 

MPEGの状況を報告する前に、私が1988年に設立し10年間運営したEUROPEAN ASSOCIATION FOR SIGNAL PROCESSING (EURASIP)技術誌であるIMAGE COMMUNICATION について、手短に言及したいと思います。これは画像符号化における研究成果を発表する手段であると同時に、MPEG標準化の進展における重要な過程を発信する手段ともなりました。

 

MPEG-2標準が発展すると共に、音声映像サービスの完璧なシステム仕様を提供する組織の必要性が高まりました。 The Digital Audio-Visual Council (DAVIC)はこのニーズに応じた新しい取組みでした。DAVIC鍵となる考えは、領域間の相互運用性を可能な限り維持するため、領域にまたがったアプリケーションの要求条件を分解するということでした。日本から多くの重要な人材が、DAVICの理事会と経営管理委員会で任務を果たしました。後にソニーの社長となる出井伸之、土井利忠、富永英義、島村和典などの人々です。

 

振り返ってみて、DAICは音声映像アプリケーションの景観を変えることができたでしょうか。多分できなかったのかもしれません。私が疑問に思う理由のひとつは、仕様の基となっている非同期転送モードATM技術が高価すぎたという事実です。その他の理由についてはここでは述べません。

 

FIPAは知的エージェントに関する取り組みでした。FIPAの理事であったNHKの榎並さんに、この席でお会いできて幸いです。今や、ユーザープロファイルの問題は高度な政治レベルまで達しています。FIPAが提唱し規定した、情報処理に対する、より分散型のアプローチは、もっと注目されるべきであると考えています。

 

MPEG2が完成する前のおよそ6年間、私は自分の時間のほぼ全てをMPEGに費やしました。そして、その後の2年間は同じくDAVICに費やしました。MPEGはMPEG-1を提案し実行することによって、標準化組織としての立場を確立することができました、MPEG-1は、独占所有権のない”Compact Disc Interactive“の中核技術を規定するために作られた標準でした。

 

日本の代表団は根幹となる役割を果たしました。安田さんは 一般的な ISO/IEC JTC1 関連において、松下の小暮さんは、MPEG-1はデジタル蓄積メディア用の映像音声符号化に関するものであるという主張の支持者として、活躍しました。日本ビクターの日高さんが彼のリーダーシップの下で映像主観評価用の施設を整備し、提供してくれなかったら、MPEGは従来の単なる善意の組織に留まり、今日の成功した組織とはなりえなかったのです。このことは今後とも語り継がねばなりません。                                 

 

安田さんはまもなくSC29の議長になり、MPEG-2への参加は少なくなりました。日高さんは再度その経験とJVCの施設を、より一層挑戦的なMPEG-2に提供してくれました。小暮さんはあの有名なDSM-CC標準のような新しいアイデアを生み出しました。 

 

私はまた、MPEG-2 Requirements のリーダーとして苦労の多い活動をした大久保さんに感謝しなければなりません。大久保さんはMPEG-2を普遍的な映像・システム符号化標準とするのに最も重要な貢献をしました。さらに、小暮さんがMPEG-2標準を実用化するための鍵である特許プール管理組織の設立に貢献したことにも感謝します。

 

MPEG-4は多数の専門家たちの尽力の成果です。私は、日本企業がMPEG4Visualをモバイルビデオ用に選択するために果たした比類ない役割を、記憶に留めています。

 

私は続けて、日本企業がいかにMPEG標準の発展と採用に貢献したか語りたいのですが、時間の都合上、日本と私自身の関係の新しい側面をご紹介したいと思います。

 

長い間日本は追従者の第一番手の役割を果たしていると言われてきました。しかし、今や谷本さんが、日本のJEITA代表団がパタヤのMPEG会合に参加し、3Dビデオの標準化の開始を提案して以来、10年間にわたってMPEGのリーダーとして務めてきたことを認識すべき時です。その提案は直ちに承認され、いくつかの標準化が行われました。その最初は、多視点映像符号化MVCの標準化でした。MVCはブルーレイプレイヤーに搭載されています。多くの人々が述べているように、心躍る新しい標準がこの分野で数多く形成されつつあるのです。私はこれらの成功が、技術が余りに挑戦的に見える段階において、技術の発展に長期的な展望を持つ企業や国が、いかにして利益を得ることができるかを思い起こさせる契機になることを願っています。

 

私のスピーチもそろそろ終わりに来ましたが、ここで私の現状に対する評価と未来への提言を述べさせてください。

 

今日、日本とイタリアは多くの面で類似した状況にあります。両国とも豊かであり、同時に負債も負っています。しかし、過去に成功した多くの国々と同様に、20世紀後半の50年の間、自分達を駆り立てた戦い成功する情熱の多くを失ってしまいました。私には、このレベルの問題を処理するには、力量は言うに及ばず、時間もありません。

 

同じ問題が規模を小さくして、私にとってもっと身近な領域でも見られます。3Dビデオのような長期的な技術への投資に見られる日本の先見性を称賛しますが、かつてはMPEGで広範囲にわたってなされていた日本の役割が、闘争的な新しい参加各国の企業や研究機関によって取って代わられているという現実があります。

 

このことは単なるグローバル化の結果かもしれませんが、戦いせずして侍と言えるのでしょか!!奮闘を期待します。